あらすじ
遠藤嘉信先生の創世記シリーズ、ヨセフ編だ。
ヨセフの人生を追いながら、ヨセフが神さまの摂理に生きる時、どのような祝福が与えられるれたのかを遠藤先生が解説する。
ヨセフは、ヤコブの子どもとして12人のうち11番目の子どもである。
母親は、ヤコブが寵愛していたラケルであり、その子であるヨセフも父ヤコブから特別に愛情が注がれていた。
そのことに嫉妬を覚えていた他の兄弟たちは、ヨセフが見た幻をきっかけに、弟ヨセフを殺すことを画策する。
長男であるルベンは、殺してはいけないと話したことで、結果的に奴隷としてエジプトに売られることになる。
一見、兄弟に裏切られ、奴隷として売り飛ばされ、悲惨な人生を歩むことになったヨセフだったが、このことをきっかけにヨセフの人生は大きく転換し、神さまが祝福する人生が始まった。
感想
ヨセフは、神さまに対して忠実な人物として聖書に描かれている。
実際にヨセフは、奴隷として仕えていた女主人からの誘惑を信仰によって断ったり、
牢獄に捕まったときも、信仰によって神さまの時を待っていたり、
王に対しても物怖じせず、神さまが見せた幻を大胆に語った。
そして、自らを奴隷に売った兄弟たちに再会した時も、ヨセフは兄弟たちを心から赦した。ヨセフの信仰は、どこまでも神さまに対する信頼があった。
確かに私はこのようなヨセフの信仰を見ると素晴らしく感じ、またうらやましくも思う。
しかし、私が本書を読んだときに最も強く感じたのは、ヨセフは確かに信仰に篤かったが、決して鉄のような人物ではなかったという点だ。ヨセフは、ただ神さまに従う悩みのない楽観的な人物ではなかった。
むしろヨセフは、非常に思慮深く、情緒的な人間であったのではと思う。
ヨセフ自身、奴隷として売り飛ばされた時、一生奴隷として生きることを覚悟していたのかもしれない。また、どうしてこのような事態になってしまったのかと悩んだに違いない。
女主人から誘惑された際もヨセフは、そうしなければ誘惑に負けるかもしれないと思ったのか、女主人を振り払って、その場から逃げるように立ち去った。
また、ヨセフは兄弟に再会を果たした時も、人目をはばからず涙を流した。
ヨセフがどのような歩みを経て、兄弟たちを赦すに至ったのか、聖書に詳細は記されていない。
しかし、ヨセフに兄弟に対する強い想いがなければ、涙を流して再会を喜ぶどころか、兄弟を憎み、飢饉においては、食料を与えなかったかもしれない。ヨセフは、彼の中で何度も兄弟たちの事を思い、悩み葛藤したからこそ、このような形で再会を果たすことができたのではないだろうか。
ヨセフの人生を通して、信仰者とは、決して悩まず、迷うことのない人ではない、ということを確認した。
信仰者であっても悩み、葛藤する。
しかし、神さまはどんな時も、信仰者と共にいてくださる。兄弟に裏切られるときも、奴隷として売り飛ばされるときも、誘惑されるときも、いつ牢獄から出られるかわからない時であっても、神さまと共に歩んだヨセフのように、信仰者は、神さまは自分を祝福され、常に神さまの時に最善の道が与えられるという信頼するのである。
ヨセフの人生は決して人間的にいつも祝福されていた人生ではなかった。しかし、ヨセフは常に神さまに祝福されていた。
ヨセフは、先の見えない訓練の中で、神さまが共にいてくださることを何度も確認し、信仰に堅く立った。
ヨセフは、つらい経験の中でこそ、神さまを身近に感じたのではないだろうか。父の愛情をたっぷり受けられた安住の地から引き離され、先行きの見えない生活や不当な仕打ちを味わったからこそ、祝福の内に成長の過程を辿ることができたのではないだろうか。
彼はそれでも確実に神の祝福を得てきましたし、事実その祝福を実感しているのです。その祝福は、この世の人々が考えるものとは、全然違うものです。違う次元で考えなければならない祝福であるということです。あらゆる困難の中で、彼を神への信仰者として育てはぐくみ、導いてこられた羊飼いの祝福です。