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『アナと雪の女王2』を聖書のメガネで観る by JunStott

『アナと雪の女王2』と聖書の内容には、いくつかの共通点、通有性があります。
(この記事は『アナと雪の女王2』(以下『アナ雪2』)のネタバレを含みます。)

『アナ雪2』と創世記22章

『アナ雪2』の終盤の展開は創世記22章の、アブラハムが神の意志に従い、跡継ぎイサクを捧げた(厳密に言えば、捧げる直前で神が止め、神が備えた身代わりの羊を捧げた)記事に似ています。

比較してみると下のようにまとめられます。

創世記 「アブラハム」は
「神」の意志に従い
「跡継ぎイサク」を捧げようとする。
アナ雪2 「アナ王女」は
「第五の精霊」の意志に従い
「アレンデール王国(国民ではなく国土)」を捧げようとする。

更に、

創世記 「アブラハム」が
「神」の意志に従い
「跡継ぎ」を捧げようとしていることを認めた「神」は、それを止める。
アナ雪2 「アナ王女」が
「第五の精霊」の意志に従い
「王国」を捧げようとしていることを認めた「第五の精霊」は、それを止める。

という通有性もあります。
アブラハムもアナ王女も、自分が最も愛する最も大事なもの、自分の分身とも言うべきものを、大いなる存在の意志に従い、捧げようとしました。
その「犠牲」の行為は、その意志を伝えた大いなる存在自身によって止められます。

しかし、違いもあります。

創世記 「アブラハム」はその後「神が備えた身代わりの羊」を捧げる
アナ雪2 「アナ王女」は「犠牲」を捧げない

創世記では、アブラハムはその後「神が備えた身代わりの羊」を捧げますが、
『アナ雪2』では、実際に犠牲が捧げられることはありません。

この違いは大きいです。
聖書には「不義(罪、契約違反)に対する神の怒りの宥めのために、犠牲(身代わり)の血が流されることで償われなくてはならない」という思想があります(創世記3:7、レビ記17:11、ヘブル9:22など)
旧約に予め示されていた、人類の罪のための犠牲は
新約のイエス・キリストの十字架によって果たされます(ローマ3:25)。
それに対して、『アナ雪2』では「アレンデールが、犯した罪の結果から解放されるためには、罪が償われなくてはならない」と示されたにも関わらず、結果としては第五の精霊によってチャラにされています。

この違いが生じた理由は、思想・神学上の理由ではなく、もっと実際的な理由ではないかと想像します。
多くの子どもが観るディズニー映画で、王女が王国を犠牲にした、という結末になってしまっては過激すぎるからではないか、と思います。
また、「神が備えてくださった身代わりの羊」にあたるものが、『アナ雪』の世界観の中では登場させる余地が無かった、ということも考えられます。

エルサとイエス・キリスト

ところで、イエス・キリストとエルサにも通有性があります。

イエス・キリスト 「神」自身である。
「神」が人となって地上に降り
「死亡してから復活」し、「自身の民」を救った。
エルサ 「第五の精霊」自身である。
「第五の精霊」が人となって地上に降り
「凍結してから蘇生」し、「自身の民」を救った。

また、救い主としての務めには通有性と相違点があります。

イエス・キリスト 神の民の王(王の務め)。
神の意志を民に伝える(預言者の務め)。
神と、神の民の間を執り成す(祭司の務め)。
エルサ 「アレンデールの民」の女王(王の務め)。
第五の精霊の意志をアナに伝える(預言者の務め)。
第五の精霊と、アレンデールの間を執り成すことはない。

イエス・キリストは神の民の王であり、エルサはアレンデールの民の女王です。
そして、救い主の「預言者」としての務めについては、エルサがアナに「アレンデールの犯した罪と、罪の償いの必要」を伝えた点で果たしていると言えなくもないです。
しかし、エルサは「第五の精霊」とアレンデールの民の間を執り成しているとは言えないですし、エルサはアレンデールの罪の身代わりともなっていないので、「神の子羊」でも救い主の務めとしての「祭司」でもありません。

まとめ

神学の世界では「宥め」「償い」についての教理が挑戦を受けているようですが、『アナ雪2』は、本当は「宥め」「償い」を描きたかったが、やむをえず完全には描けなかったのではないかと思います。

とにもかくにも、『アナと雪の女王2』は、福音に似て非なる物語となっています。

by junstott

参考文献

J・I・パッカー著、長島勝訳『十字架は何を実現したのか 懲罰的代理の論理』(いのちのことば社、2017年)
O・パーマー・ロバートソン著、高尾直知訳、清水武夫監修『契約があらわすキリスト 聖書契約論入門』(株式会社ヨベル、2018年)


アブラハムが捧げた「身代わりの子羊」は罪のための犠牲ではありませんでしたが、アレンデールは罪のための犠牲を捧げる必要がありました。「アレンデールの罪のための犠牲」という性質は、モーセの律法に記された犠牲に通有性があります。出来事自体はアブラハムの犠牲に似ていますが、犠牲の性質はモーセの律法の犠牲に似ていると言えるかもしれません。