ブックレビュー

カルヴァン『キリスト教綱要』 〜神学教育を受けていない私が読んだ実感 by JunStott

はじめに

私はキリスト教に関する本を読み始めたごく初期に、カルヴァンのキリスト教綱要を読んだ。
今回は「概要」と「感想」という形ではなく、私が『キリスト教綱要』を初めて読んだときに感じたこと、そして繰り返し読み続けている現在の私が感じていることを書きたいと思う。
そういうわけで、この文章は『綱要』の内容を要約し説明しているわけではない
この文章は、カルヴァンの『キリスト教綱要』という本を、神学教育を受けたことのない一人のキリスト者が読み、カルヴァンについて、神学書について、読書について感じたことを綴ったものであり、レビューというよりはエッセイである。
ではあるが、誰かの信仰生活、読書体験にわずかでも資するものになればと思い、書かせてもらった。

 

言い訳が長くなってしまったが、ここから本題に入りたいと思う。
「カルヴァン」と聞くと「硬い」「難しい」「厳しい」「冷たい」というような印象を持たれるかもしれない。
しかし、実際に『綱要』を読むと、それらとは違った印象が得られるはずだ。

 

カルヴァンは「硬くて」「難しい」か

「硬い」ということだが、確かに『綱要』の文章は硬い。
また、16世紀の神学論争の文脈の中で書かれているので、21世紀の私たちが読むとどういう話題なのかよく分からない部分もある。
「難しくない」と言えば嘘になると思う。
しかし、少しずつゆっくり読むなら、毎週礼拝の中で説教を聴くクリスチャンにとって「全く理解できない」話題はかなり少ないと思う
カルヴァンという人は、様々なテーマについて丁寧に聖書から説明してくれている。
こちらが少しずつゆっくり読めば分かってくると思う。

ただやはり、「全く分からん!」という話題が無いわけではない。
そういう部分は、分からないままとりあえず読んで通り過ぎてしまっていい。
全体を読んだら分かるかもしれないし、また読むときには分かるかもしれないし、他の本を読んだら分かるかもしれない。
これは他の本を読書する際にも言えることだが、初めて読んだその時に内容全部を理解する必要は全くない。
思えば、私がキリスト教書の読書を始めて最初のころあまりうまく行っていなかったのは、ゆっくり読むことをせず、しかも全てを理解しようとしていたことに大きな要因があるように思う。

私が『綱要』を読み始めたのは、大体4年前からで、それより前に渡辺信夫著『キリスト教綱要を読む』を読んだ。
読み始めた動機は前回のブログと重複する点もあるが、『綱要』を選んだ理由は、母教会の牧師がよくカルヴァンを引用していたことと、『綱要』がプロテスタントの初期の古典的名著であり、ルーツから学びたいと思ったからだ。
最初は正直言って『読む』の内容があまりピンと来なかった。
まだキリスト教に関する本の読書を始めたばかりで、自分の中で聖書に関する知識があまり整理されていなかったからだろう
「今は整理されたのか?」と問われると、まだまだだが、あの頃よりは多少進歩している、と思う。

さて、『読む』の内容がイマイチ分からないまま『綱要』を読み始めた私は、『綱要』の中身も最初イマイチ分からなかった。
「フランス王への献呈の辞」がやたら長かった。
時間がかかり、途中途中で長い中断もあったが、とにかく最後まで読んだ。
『綱要』を読み終えてから『読む』を再び読んだら、『読む』の内容がよく分かった。
そのことに感動した。
『綱要』を再び読み始めると、『綱要』の内容も分かるようになっていた。
また感動を覚えた。
最初分からなくても、2回目読んだら分かるようになる。
ここに読書の醍醐味の一つがあると思う。
そうして2周目は、1日4節読んで1年で通読すると決めて読み、今は3周目に入っている。

カルヴァンの「頭が硬い」かと言うと、硬いかもしれない。
しかし、それは律法主義や教派主義にこだわる硬さではない。
それは、聖書という基盤に立ち「ただ神の栄光のみ」を求める誠実な信仰者の硬さだ。
「ただ神の栄光のみ」があらわされることに強いこだわりがあるからこそ、真理にこだわり、妥協せず、探求し続けているのだ。

 

カルヴァンは「厳しい」か

さて、カルヴァンが「厳しい」かと言ったら、禁欲主義的な厳しさは『綱要』から感じないと思うので(ぜひ読んで確認していただきたい)、それについては触れないが、論敵に対する厳しさはすぐに感じるだろう。
「一致」が叫ばれる現代、なぜこんなに細かい言葉のことで論争するのか、と不思議に思うかもしれない。
それは、「わたしが道であり真理であり…」と言われた神と、神の言葉である聖書への真剣さのゆえだと思う。
争いを起こさないために真理を曖昧にする態度は時には悪ですらある。
イエス・キリストは当時の論敵に対して「まあまあ堅苦しいことは言わず仲良くしましょうよ」とは言わず、厳しい態度で臨んだ。
宗教改革者たちは真理である神と、神の言葉である聖書の教えを守るために、文字通り命がけで戦った。
当時の背景を考えず「もっと協調の道を探すべきだった」と言うのは当時の人々に対して不誠実な態度だ。
カルヴァンや宗教改革者たちは、神への忠誠(loyalty)のゆえに真理を探求し、誤りに対しては「誤っている」とはっきり批判した。

また、組織神学の本を読んだら分かることだが、「ある考えに対する反論」を含まない神学書は、多分無いだろう。
「Aとは、Bである」だけでは十分に説明できないことがある。
「Aとは、Cではない」と説明することで、より詳細に理解できることがあるのだ。

 

カルヴァンは「冷たい」か

『綱要』を読むと、一人の、生(なま)の、信仰の人としてのカルヴァンに出会えると思う。
神学者である前に、一人の信仰者であるカルヴァンの言葉が、そこにあるのだ。
読みやすい組織神学の本が読みたければ、他の本があると思う。
『綱要』は、少しずつゆっくり読めば分かるとは書いたが、読みやすいか読みづらいかで言ったら、読みづらい方の本だ。
それでも私が『綱要』を読む理由は、そこに「信仰者カルヴァン」との出会いがあるからだ。
16世紀の宗教改革者ジャン・カルヴァンの言葉に出会い、どんなことを考えていたが味わえる。
400年以上の時間を越えて、「同じキリスト者」としての対話がそこにある。
信仰者カルヴァンは、時間をかけて対話する価値が十二分にある人物だ。
カルヴァンは全く冷たくはない。
誠実に神の言葉である聖書と向き合い続け、実践しようとした「熱い」人だ。

時を越えた対話がある。
これも読書の醍醐味の一つだと思う。

 

最後に

これは半分冗談だが、カルヴァンが論敵を批判するときの表現の豊富さも、『綱要』を読んだ者にだけ味わえる面白さだと思う。
カルヴァンはウィットに富んだ皮肉を言う人だ。
ユーモアがあるという意味でも、カルヴァンは冷たくも硬くもないと思う。

斜め読みや概要だけでは分からない著者のキャラクターも、ゆっくり読めば見えてくる。
そうすると、著者に語りかけられているような気がしてくるし、著者と少し仲良くなれる気がする。
会ったこともない時代の著者を友人のように知ることができるというのも、読書の醍醐味の一つだ。

by JunStott


そういう文章を求めている方には、渡辺信夫著『カルヴァンの「キリスト教綱要」を読む』をぜひ読んでいただきたい。

これは『綱要』以外の神学書にも言えることで、クリスチャンなら「全く分からん!」という話題はそう多くないと思う。自分が所属する群と全く異なる伝統に立つ神学の本を読んだらまた違うかもしれないが。

神学書、特に組織神学の本を読む恵みとして、浅学な私が私なりに考えたことの一つは、全く新しい知識が与えられることではなく(そういうこともあるが、クリスチャンにとっては聴いたことのある内容の方が多いと思う)、自分の頭の中に雑然と蓄積されていた聖書の教えが、順序立て整理され、それらが互いに結び付けられることにあると思う。「組織神学など読まなくてもとっくに整理されている」という人も、他人の「聖書の教えを整理するときの枠組み」を知り、自分と比較してみることも、良い学びになると思う。また、こうした「整理してくれる」本は分厚い神学書でなくとも、良質な「キリスト教入門」的な本にもある。クリスチャンになって長い人でも、入門書を読んでみると案外もやもやがスッキリされることがあると思う。