歴史書

マニラ宣言

あらすじ


ローザンヌ誓約に続き、ローザンヌ運動の一環として、1989年フィリピンにマニラにおいて、170ヶ国約3000人が集まり、福音と文化、伝道と社会責任、シンプルライフ、聖霊論、回心の意味などについての話し合いが行われた。そして、「主が再臨されるまで、キリストを宣べ伝えよう」「全世界に福音をあまところなく宣べ伝えるために召し出されているすべての教会」という二つの主題をもとに、福音派クリスチャンのローザンヌ誓約に基づく信仰の確認と、社会へのかかわりについて宣言しているのが、マニラ宣言である。

マニラ宣言は、Aあまねく福音を伝えよ Bすべての教会 C全世界に の三つのテーマに分けられている。

Aあまねく福音を伝えよ

”私たちクリスチャンは、あますところなく福音を伝えるようにと召されている”という言葉で象徴されるように、ここで強調されているのでは、全生活を通して行われる福音の伝播である。 伝道と社会的責任の両者にも積極的に参加し、それぞれが住む社会において、キリスト者としての証を全生活を通して送っていくことの重要性が語られている。そして、その行動のすべては、イエスキリストの愛による。過去のキリスト教の多宗教への差別や侮蔑を反省しつつも、キリスト教の独自性を妥協することなく、証し続ける重要性が語られており、積極的かつ能動的な生活になるよう勧める。

私たちの関心や幻が狭小であるために、イエス・キリストの主権が、私的であれ、公的であれ、地球的であれ、すべての生活に及ぶことを宣べ伝えることに失敗してきたことを認めねばならない。「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」(マタイ6)との命令が真底から守られるように願っている。

Bすべての教会

“生まれ変わった生活そのもの以上に、福音を伝えるための雄弁はない。”

教会においても個人において、キリストにあって生まれ変わったものとして、言行一致している生活ほど、福音を伝える最も有効な手段であると述べられている。特に「万人祭司制」を強調し、教会が教会に集うすべてのクリスチャン賜物を生かし、人々をキリストの弟子にすることができるような訓練をするあり方を勧めている。

牧師と教師の特権は、神の民をキリストにあって成長させることである(コロサイ1:28)。また、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの身体を建て上げさせることである(エペソ4:11-12)。牧師は神の働きを画一化するのではなく、むしろ多様化することによって彼らの賜物が生き生きと用いられ、また、人々をキリストの弟子とすることができるように訓練する。牧師によって信徒が支配されることは教会史の中に見られる大いなる害悪の1つである。それによって、神の与えられた役割を信徒も牧師も果たすことができなくなり、牧師は役立たずになり、教会の力を弱らせ、福音の進展を妨げている。何よりも聖書の教えそのものに反している。こうして何世紀も「万人祭司制」を強調してきた教会は、今、再び、万人祭司制を強調するのである。

C全世界に

クリスチャンの在り方本来、国や他宗教と対立するものではなく、むしろ国に対しては、忠実であり、他宗教との関係においては、共に信教の自由を願っているものであると宣言している。全世界の3分の2のノンクリスチャンに向けて福音を広げることは、緊急性を要し、そののためにクリスチャンの一致と犠牲的精神が求められている。

第1に、クリスチャンは忠実な市民であって国家に福祉をもたらすために努めている。彼らは指導者たちのために祈り、税金を支払う。もちろん、イエスを主と告白する者は、他の権威を神として拝むことはできない。キリスト以外のものを拝むことはできない。しかし、市民としては善良な人々である。結婚生活を守り、家庭を尊び、勤勉に働き、正直に商売し、福祉のために奉仕することによって国家に益をもたらしている。それゆえ、国家はクリスチャンを恐れる必要は何もない。

第3に、クリスチャンはキリスト教についてだけ信仰の自由を願うのではなく、どのような宗教についても、信教の自由が保証されるよう願っているのである。キリスト教国において、他の宗教を信じる少数の人々の信教の自由のために努力しているのはクリスチャンたちである。それと同じように、クリスチャンたちは、彼らが少数派である国において最低の信教の自由が保証されることを願っている。宗教を「信じ、実践し、教布」する自由は、人間の権利についての普遍的な宣言の中に定義されているように、相互に認あるべきであり、またそうすることは可能である。

 

感想


特に強調されていると感じた事柄は、教会の多様性と一致である。教会や教団、宣教団体等が互いの特徴を生かした多様な宣教と、それに伴う究極的なヴィジョンの共有と一致が今後の教会に求められている姿であることを思わされる。

 

また、その多様性の中で、地域教会の重要についても述べられていた。地域教会は常に、地域の責任を担う責任があると同時に世界規模の共同性を持っている両側面の中で宣教は行われるべきであり、自らの地域の献身が世界宣教の大きな役割も担っている。地域教会は、常に世界的な視野で、地域に外向的な福音を発信し続けることに召されていることに気づかされる。

 

しかし、一方で本文の中に「自分の文化的背景を捨て・・・犠牲的な宣教師によらなければならない」という文言があり、その言葉は、2020年現在の宣教師の求められている事柄とは少し乖離しているようにも思った。確かに、現地の文化的背景に順応する宣教は非常に重要であり、その国の文化やその地に生きる人のアイデンティティを知ることは何にも勝って、人間理解に役立つ。

けれども、キリスト教に限らず、多様性が謳われている現代において、宣教師の持つ文化もまた、尊重されるべきである。文化という賜物を持った一人の人格者として異文化に宣教することが、これからの宣教には重要になってくると考えた。まさにそのような宣教こそが、多様性にある一致だ。

 

 

【外部リンク】

日本ローザンヌ運動 マニラ宣言