雑記ブログ

戦争経験者の渡部良三さんから学ぶ~②派遣された中国での生活~

渡部良三さんについて

 

渡部良三さんは、第二次世界大戦で中国の深県という場所に派遣され、最前線で戦争の悲惨さを目の当たりにした方です。中国に滞在中、度胸試しという名の「刺突訓練」を上司から命令されますが、50人いた部隊の中で唯一、その命令を拒否して、キリスト教徒としての信仰を守り抜きました。上司からの命令に背いたことで、同じ日本兵から何度もリンチされ、様々な部隊にたらい回しにされ、日本兵からは危険人物として、敗戦を迎えることになりました。終戦後、渡部さんは自身の戦争経験を様々なところで講演し、戦争責任の問題や、戦争の悲惨さを多くの人に伝えています。今回は、この渡部良三さんの経験されたことと、戦争に対する思いを、ある高校の講演で話されたことをもとにシリーズで話したいと思います。

 

派遣された中国での生活

1944年に、学徒動員が理由で渡部良三さんは、中国に派遣されることになりました。1943年10月21日から学徒動員が行われた大きな理由について渡部良三さんは、次のように語っています。

”大学、高等専門学校に学んでいるやつを引っ張り上げて、戦地へ持ってって、そして、下級将校、要するに今でいうと、3尉2尉1尉くらい、下級将校を補充しようというものが最も大きな狙いでした。”

そして、渡部良三さんは、まさにこのような国の決定によって、1944年3月に中国に派遣されることになります。

戦時中、日本軍は中国に、それぞれ「北シナ派遣軍」「中シナ派遣軍」「南シナ派遣軍」と称して3つに分かれて部隊を派遣していました。それぞれには総司令官がおり、渡部良三が初めに派遣されたのは、「北シナ派遣軍」でした。それから後「中シナ派遣軍」の第5航空軍の飛行部隊に配属になり、悲惨すぎる経験をした「刺突訓練」の悲劇は、この「中シナ派遣軍」の時の事でした。

「中シナ派遣軍」の中駐屯地での生活は、ライフラインが何一つ揃っていない状態でした。もちろん石油もなく灯りは、ごま油やなたね油をお皿に入れ、針金を巻き付けた木綿をそのお皿に入れて確保していたそうです。また、4月の中国は夜になると霜や雪が降る時期でもあり、非常に寒い中を過ごしたそうです。日干し煉瓦で作った小さな兵舎の中で、竹などで編んだハンペラというものを敷いて、ワラ布団と毛布を2,3枚かぶって寝ていたそうです。

 

また、その駐屯には、中国人等の捕虜がいたそうですが、捕虜に対しての扱いについて、ハーグ条約というものがありました。このハーグ条約の中には、捕虜に強制労働をさせてはいけない。重労働させてはいけない。捕虜のたべるご飯を、兵隊が食べなくても欠食させてはいけない等という規定が細かく記載されていました。しかし、中駐屯地での生活から1か月余り経った時、兵舎で朝食を取っていたときの事でした。分隊長が兵舎の扉を強く開けて、伝達係を通じてこう言ったそうです。

 

”教官殿の配慮により、捕虜を殺さしてやる。有難く思え・・・”

 

当時では、上官の命令は絶対でした。当時、軍隊にはいると必ず携帯し持たされるものに、「軍人勅諭」というものがあります。その中には、”上官の命令はすなわち朕が命と心得よ”と書いてありました。つまり、上官の命令は天皇の命令と思い、決して背いてはいけないというものでした。

渡部良三さんは、ある高校での講演において、この「軍人勅諭」を、敗戦時元曹長であったある方の言葉を借りて、このように説明していました。

”軍隊は朕すなわち天皇の命令によって統率されるという組織であった。理論とか法律というものは関係なく、ただ天皇の命令による。だから極度の強制が必要だ。・・・そのためには暴力に頼るほか仕方がなかったのである。”

 

 

上官の命令は絶対である。という状況の中で発せられた捕虜の「刺突訓練」の言葉は、渡部良三さんをはじめ、それを聞いた49人の隊員にとってどのような意味を持っていたのか、またどのような思いだったのか。

 

いずれにせよ、分隊長のこの一言から、戦争に対する渡部良三さんの葛藤と戦いが始まっていきます。

 

また次回・・・