渡部良三さんについて
渡部良三さんは、第二次世界大戦で中国の深県という場所に派遣され、最前線で戦争の悲惨さを目の当たりにした方です。中国に滞在中、度胸試しという名の「刺突訓練」を上司から命令されますが、50人いた部隊の中で唯一、その命令を拒否して、キリスト教徒としての信仰を守り抜きました。上司からの命令に背いたことで、同じ日本兵から何度もリンチされ、様々な部隊にたらい回しにされ、日本兵からは危険人物として、敗戦を迎えることになりました。終戦後、渡部さんは自身の戦争経験を様々なところで講演し、戦争責任の問題や、戦争の悲惨さを多くの人に伝えています。今回は、この渡部良三さんの経験されたことと、戦争に対する思いを、ある高校の講演で話されたことをもとにシリーズで話したいと思います。
初めての戦闘
「刺突訓練」を拒否した渡部良三さんは、日本の各隊から危険人物として見られるようになりました。
渡部良三さんは、中国での生活が1年過ぎたある日部隊の隊長から通信兵になることを命じられ、天津に行くことになりました。天津はそれまでいた深県とは異なり、大都会でした。そのことを伝えられた渡部良三さんは、少し嬉しかったそうです。
”僕はその時、なんと、ああ電気がみられる、電気の下に行ける。たまには、外出もできるだろう。そうすりゃ本屋にかを出すこともできるだろう。それがとっても嬉しかったんです。”
しかし、天津での通信兵での仕事は楽なものではありませんでした。通信兵は、1分間に数字を120字打たなければいけません。当時の通信で使っていた機械で1分間に120字を考えるとかなりのスピード打たなければ、そのノルマをクリアすることはできません。しかし、幸いにも渡部良三さんは、その通信兵の仕事を8000人程度いる通信兵の中で最も良い成績を収めたそうです。そしてそのおかげで、他の隊に転属になっても通信兵を任されるようになったそうです。
”そういう風になって、そしてその転属しながらも通信兵だったが故に非常に助けられた”
その年の秋11月ごろ、渡部良三さんの部隊は、中国共産党の八路軍が白河と呼ばれる川の上流を切り崩し日本兵の行動を足止めした、という情報を得、その八路軍を討伐するために駆り出されることになりました。そこで渡部良三さんは、初めて戦闘を経験することになります。
しかし、その渡部良三さんの初めて経験した戦闘はあまりにも悲惨なものでした。
まず、その討伐戦は初めから負け戦であることが明白であり、そのことを知ったうえで上層部はその800人の隊を八路軍討伐のために送り出しました。実際にその戦闘で800人いた隊員は300人程度になったそうです。
このことに初めに気づいたのは、その隊の隊長でした。そして、渡部良三さんもそのことに気づいていたそうです。上層部に見捨てられた負け戦であるかと気づいた理由は、通信兵と通信機を動かす電機を発電する人がそれぞれ一人ずつしかいなかったからでした。
その状況は、万が一の時が起こっても通信を自由に行うことができず、助けを呼ぶことができないことを意味していました。この部隊は死んでもどうでもいい、自分が殺されても死んだっても何ということはない、放り出されるんだ。ということを隊長はなんとなく理解していて、かなりのいら立ちを覚えていたそうです。
しかし、実際に討伐に向かっても、1日、2日経過しても八路軍とは巡り合うことはありませんでした。
そのため、日本軍は800人の部隊を4つに分けて、八路軍を探しに行くことを始めました。しかし、そこで行ったのは、あぶりだしでした。
近くの集落に行き、ラオチュというアルコールの高いお酒に火をそのまますべての家につける。燃える速さはものすごかったそうです。そして、町々を壊すことを1日中行いました。
このあぶり出しの事を渡部良三さんは次のように語っています。
”それを全部壊して、そして火をつける。もう1日も2日もそれをやる、1日中そういう状態でやって後ろを振り返りますと、ずーっとまるでイカ釣り船を見る様にそういうその火の海。
文字通り火の海が、渡部良三さんの目の前に広がっていました。
日本兵は、八路軍をあぶりだすために家を燃やしただけではありませんでした。日本兵があぶりだしと同時に行ったことは、殺害や、略奪、強姦だったそうです。見張りをつけながら、倫理的とは全く言えない行為を日本兵はその時何度も行っていたそうです。
渡部良三さんはそのような行為をしている日本兵の中に同じ時期に中国に来た隊員を見つけたそうです。その中国に来て1年間もないその若い日本兵も、他の日本兵と同じように非人道的なことを堂々としてしまうことに渡部良三さんは何よりも衝撃を受けたそうです。
ほかにも渡部良三さんがはっきりと記憶に残っているのが、その時にいたおばあさんの事でした。
そのおばあさんは、非人道的な日本人を憎しみに満ちた目で見ていたそうです。その様子を見た古年次兵は、すぐにそのおばあさんに乱射するように銃を撃ち、殺してしまいました。そして、その死んでしまったおばあさんをその古年次兵は、近くにあった井戸のふたを開け、その中に放り投げました。
”そのなんとも言えない、殺して5発も6発も撃ち込んで、死んだおばあさんを井戸のふた取ってそこに投げ込める。・・・私はその時本当に、なぜ?という思い。むごい。もうそれしかありませんでした。言葉はありませんでした。”
”こういった現実というものを自分の目で見た中国人が忘れると思いますか。未だに中国から怨念の声が上がります。中国の要人は言いますね。日本人は忘れることを美徳にしているから、だから我々は日本人に忘れてもらわないように、ことある毎に日本の暴虐を口にするんだ。よく言います。”
そして、当時の事を知っていた中国人の方は、相当日本人を恨んでいたと渡部良三さんは語ります。
そして、この出来事から間もなくして第二次世界大戦の終戦を迎えることになります。
渡部良三さんが見てきたものは、僕が想像できる範疇を大きく超えていると思いました。目の前で同じ日本人が、それぞれが欲するままに、中国人に対して人間とも思っていないような方法で迫害している様子を見た渡部良三さんは、心が壊れるには十分の出来事を経験したのだと思います。
そんな状況を経験しながら、それでも戦争の悲惨さを後世に残そうと、らい出来事を語る勇気とその覚悟はどれほどのものなのかと渡部良三さんの言葉を聞いたとき、僕は思いました。
ではまた。