本書の要約
森島豊『抵抗権と人権の思想史 欧米型と天皇型の攻防』
日本ではあまり知られていないが、人権尊重の思想のルーツの一つには、「人間は、神によって神のかたちに造られ、神によって愛されているから価値がある」というキリスト教信仰がある。
人権が本当に保障されるためには、政治権力が市民の人権を侵害したときに抵抗できる「抵抗権」の確立が必須である。
抵抗権は、神の存在を政治権力よりも上に置くキリスト教信仰によって確立されてきた。
「政治権力が聖書の教えに背いているときは、それを是正できるし、しなくてはいけない」という発想である。
人間の価値をただ「神によって造られた」という創造論に限定すると、思弁的で根拠の無い思想になる。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです(Iヨハネ4:10)」という聖句が示す通り、「キリストの十字架」という歴史的事実に根ざしたキリスト論、贖罪論に根拠を置いてこそ人間の価値は保障できる。以上の人間の価値に対する思想を著者は「欧米型人権」と定義する。
欧米の人権、市民革命、憲法起草の歴史を見ると、そのリーダーの多くは理神論者であり実質クリスチャンではないが、その歴史の形成過程は、教科書には載らない多くの普通の市民のキリスト教信仰に支えられてきた。日本国憲法には、鈴木安蔵、吉野作造、植木枝盛というそれぞれキリスト教と接点のあった三者を通して「欧米型人権」思想の影響がある。
日本においては江戸時代末期以降、「お上に逆らわない限り人権が尊重される」という抵抗権無き人権、限定的・条件付き人権、まがいものの人権思想が社会に広まった。筆者はこれを「天皇型人権」と定義する。
「天皇型」と呼ぶのは、大日本帝国とその憲法が天皇の宗教的権威を利用し、政治と「カミ(天皇)」を一体化し市民を統治したことによって、政治権力より上に神(と神に造られた人間)を置く、信仰に基づく抵抗権の芽を摘んだからである。
現代まで「天皇型人権」思想は日本国憲法の「欧米型人権」思想と対立しながら残存しているため、日本国では事実上人権が保障されない事態が起こりうるし、実際に起こっている。
著者は日本で本当に人権が尊重されるために、「欧米型人権」思想が社会に普及する必要を主張し、特に私学のミッションスクールの価値に注目する。
感想
前書きを読むと、著者が2020年現在の日本における人権の危機を痛感し、強い使命感を持ってこの本を書いたことが伝わり、こちらも気合いを入れて受け止めなくては、と感じ、読んだ。
本の前半では欧米型人権思想と日本国憲法の成立が解説され、クリスチャンにとっては感動を覚える内容でもあるが、後半の天皇型人権思想の話になると、概要で書いた通りの内容なので、暗澹たる思いになる。
日本の将来は決して明るいとは言えない。政権中枢と「お友達」ではないほとんどの市民にとって希望的観測はかなり難しいものに思える。
しかし、この本には逆説的な希望がある。
キリシタンが豊臣政権、徳川幕府に公然と抵抗して以来、日本の為政者はキリスト教信仰に基づく欧米型人権思想を恐れ続けている。
400年以上、為政者にトラウマを残し続けるインパクトがあるわけだ。なぜだろうか?
それは、権力を相対化し、個人の価値を肯定する聖書の教えにそれだけの力があるからである。
世の中を変えてしまう力があるのだ。
その力は特定のリーダーが持っていたわけではなく、教科書には名前が載らない普通の市民の信仰の集まりが持つ力であった。
普通の人が真剣に聖書の教えに生きようとするとき、社会に絶大なインパクトを起こすことがあり得る。
それを政治的センスで見抜いているからこそ、日本の為政者は欧米型人権思想を潰そうとしてきたのだ。
真剣に聖書の教えに向き合うとき、個人だけではなく社会も回復される。
キリスト者が御言葉にどれだけ忠実に生きられるか、そして、キリスト教なんて全く関係ない方にとっては、日本国憲法に書かれた人権思想をどれだけ真剣に受け止めるか、シンプルだが簡単とは言えないチャレンジだ。
最後に、この本では、今まで日本では注目されてこなかったキリスト教ルーツの人権思想について解説されているが、理神論/無神論をルーツとした人権思想もある。
今後はそれらについても学び、考えていきたい。
私は福祉を学び、福祉の分野で働く者であり、大学の卒業研究で「福祉の教科書の最初のページには『人権を尊重しなくてはいけない』と書かれているが、その人権尊重の根拠となるものは何か」を考えたいと思い、テーマを立てた。
卒業研究自体は私の不勉強と怠慢で惨憺たる出来だったが、そのテーマ自体は今も変わらず私の関心の対象である。
今後もキリスト者の視点から「人権」について考え、学んでいくことを私自身の課題としたい。
by JunStott