アンドリュー・マーリン 著、岡山和作 訳『LGBTと聖書の福音 それは罪か、選択の自由か』いのちのことば社、2020年
概要
まず感じたことは、この本は「LGBT(セクシャルマイノリティ)コミュニティにコミットメントした著者個人の証し」という感が強く、「LGBT(セクシャルマイノリティ)と聖書」について考えたい・学びたい人の入門書には向いていないということである。
かといってそういったものが日本語で読めるかというと、福音派・福音主義の立場から出ている本はほぼない。
私が確認した限りでは『「聖書信仰」の成熟をめざして』(いのちのことば社、2017年)内の「聖書信仰は多様な性のあり方にどのように向き合うべきか(斉藤善樹)」という論文で、聖書本文の同性同士の性交渉について書かれている箇所について論じられているものと、『男か女か 〜同性愛のカウンセリングに〜』(ICM出版、2000年)という、主に「同性愛をやめたいと思っている人(訳者まえがきより)」向けに書かれた本がある。
さて、本書の基本的な論旨は「いきなり相手の人格(人生)を否定してはいけない」ということである。
いきなり「あなたの生き方は間違っている」と宣告・断罪するのではなく、まず相手のそれまでの人生・生き方に耳を傾けることだ、と。
いきなり相手の人生を真っ向から否定する方法は、下手をするとマインドコントロールの手法に近いし、その方法はLGBT(セクシャルマイノリティ)コミュニティに対する宣教の手段として上手くいっていない現実がある。
この本を読むと、「聖書は同性愛を罪としているか」などの、当然想定される問いに対して、著者はぐらかし続けているような印象を受ける。
なぜそうなのかというと、著者は、質問の回答によって敵と味方を選別するような「選択的(閉鎖的)な問い」に対して、想定される「YES」か「NO」で答えるより、より建設的な対話が生まれる答え方をする、という姿勢を取っているからである(10章)。
著者は「パリサイ人に『カエサルに税を納めることは律法にかなっているかどうか』と聞かれたときのキリストの対話法を参考にしている」と言う。
キリストのやり方を踏襲しようという著者の論じ方が上手くいっているかどうかはなんとも言えないところがあり、著者は真理を探求することに対して幾分不誠実にも見えるが、「選択的(閉鎖的)な問い」が、教会とLGBT(セクシャル)マイノリティの間に生産的な対話を生んでこなかった現実に対する、著者なりの応答・工夫なのだろう。
ただ、著者は聖書の中で議論となる箇所を完全に避けているわけではなく、7章では特に「同性同士の性交渉」に言及している聖書箇所を論じている。
著者は「単語や文節に固執せず、広い文脈を読む」と言い、その読み方自体は正しいと思うが、著者は「著者流の文脈の解釈」によって、テキストに書かれている単語をだいぶ無効化してしまっていて、無理があるというか、強引な印象も受ける。
10章では「LGBT(セクシャルマイノリティ)と聖書」に関してよくある質問に著者なりに(前述の方法で)答えている。
長い本なので、気になる人は7章と10章から読んでみて、この問題について考えてみる参考にするのも良いかもしれない。
また、同性同士の性交渉を否定しない「ゲイ神学」の考え方を紹介している4章も、この問題を考える上では参考になるだろう。
さて、邦題に入っている『それは罪か、選択の自由か』という文言は本文の内容に則していない。
「選択の自由」という言葉は本文に出てこないし、LGBT(セクシャルマイノリティ)の方々も、「LGBT(セクシャルマイノリティ)であることは本人の後天的な選択である」という前提に立っている「選択の自由」という語は好まないのではないかと思う。
前述の通り、『それは罪か、選択の自由か』というような対立的な問いはこの本では論じられていない。
邦題に『それは罪か、選択の自由か』と入れた人は、本当にこの本を読んだのだろうか。
最後に、この本が「異性愛」「独身でいること」など、聖書で語られている「性(セックス)」に関するトピックについてほとんど語っていない点は不十分に感じる。
著者がこの本で扱う範囲を越えているということなのかもしれないが。
著者の意図が、普遍的な法則を立てることにないことは著者が書いているので、では、著者がこの本で何を伝えたかったのかというと、最初に書いた通り、「いきなり相手の人格(人生)を否定してはいけない」ということなのだろう。
LGBT(セクシャルマイノリティ)と聖書について学びたい・考えたい読者にとっては物足りなさを感じる本かもしれないが、「キリスト教的前提が全く存在しないorキリスト教的考え方について敵意を持っている世界で福音を宣べ伝える際のキリスト者の姿勢・態度」について考える上では参考になる本だろう。
by junstott