あらすじ
本書はボンヘッファーが告白教会で将来牧師を志している神学生に向けて、講義した内容をまとめたものである。
実際にボンヘッファーが話した内容が記録されているわけではなく、その講義を受講した学生たちの記録によってまとめられたものである。
本書では大きく分けて牧会者としての説教と牧会のあり方を教えており、今回は牧会についてのあらすじと感想を書く。
牧会については、大きく分けて、3つについて書かれている。
①牧会者としての御言葉との向き合い方
牧会のわざは、神の戒めとしての律法を聞き、また現実の生きた救いと助けである福音を聞くように、人間を整え備えることである。
②教会の人々との対話
神へのたえざる祈りを抜きにしては、牧会的な対話は存在しない。
われわれの他者に対する愛は、まず第一にわれわれが他者の語ることに耳を傾けることである。
③具体的(冠婚葬祭やサクラメント)なものに対しての行い方
教会は、地上においても天井においても、一つの教会である。天上にある教会は、地上における教会よりも、主とのより親しい交わりによって生きている。故人は実際には生きる者であり、地上に生きる者は死んでいる者である。墓地は生命の勝利の場所である。そこには、主にあって生ける者が横たえられているのである。
ボンヘッファーは、御言葉は受肉したキリストご自身であることを述べている。そして、牧会とは、その御言葉を教会の一人一人まで届かせることであるという。
そして、その御言葉(キリスト)によって、キリストにのみつながっている教会の現実を伝えており、神学生に向けて、そのことを伝える牧会者になるようにと勧めている。
感想
私には「できない」という壁は、まずそこで突き破られなければならない。私にはそれが「できるのだ」ということ、またどこでその「できない」という壁が克服されるのか。ということを私が知るならば、そこで私は、私と戒めとの間に立ちはだかっている者から自由に去れるだろう。この私にでは「できない」ということは、根本的には、私は「そうしよう」と思わない。ということを意味しているのだということがおぼろげながらわかってくる。
この文章を読んで思った事は、クリスチャンは恵みによって生かされている故に、与えられている賜物を自分自身で否定してはいけないということだ。
人は、神の前では、裁かれるのを待つしかない存在である。「神の義」の前では人間が圧倒的に罪人であり、十字架にかかるべき存在だった。しかし、そこにイエスキリストが地上に来られて、身代わりとなって十字架にかかり死なれた。
それを信じた人は、律法の下に閉じ込められた存在から、「義」と認められて、自由の子としての新しい生を与えられる。
クリスチャンが自由の子として生かされているのは、100%神さまの恵みだ。
その恵みによって救われたクリスチャンは、その後の歩みもまた恵みによって生かされている。だからこそ、恵みによって生かされているクリスチャンは、自分が神さまから与えられている賜物を用いなくてはいけない…神様にあるヴィジョンをあきらめてしまってはいけないと思った。
ボンヘッファーが語るように、教会に集う一人一人が、100%神様に身を委ねて全身全霊でそれぞれの持っているタラント(賜物)を用いようとする信仰が与えられるようになった時、大きな変化が教会内においても、地域においても、起こるのではないかと思った。
ボンヘッファーは、牧会者の働きを次のように述べている。
どの段階においても自分の力により頼まず、ただひたすらにキリストの言葉と霊とに依り頼むのである。
私は将来牧会者になることを志している。
ボンヘッファーが語るように、どのような状況においても神さまにより頼む存在として、牧会できる存在になっていきたいと思った。
そして、将来の事に不安や悩みを抱えながらも、与えられている想いを養いながら、将来のために歩んでいきたいと思わされた。