ブックレビュー

説教と牧会『説教編』ディートリヒ・ボンヘッファー著

あらすじ

ドイツの神学者であったディートリヒ・ボンヘッファーが戦時中(1935年~1940年)に、自身が所長をしていた告白教会での牧師研修で話した内容をまとめたものである。

ボンヘッファーが書いた原稿そのものは残っていないため、その講義を受けた受講生のノート等を基に編纂された書である。

内容は、説教と牧会である。ボンヘッファーが将来牧師になりたいと願う神学生に向けて、説教と牧会を御言葉の中から、それらの重要性を伝えたうえで、実践的な勧めをしている。

牧師が説教を準備する際、いくつかのステップを伝えている。

①祈り

説教の準備は、聖書本文の前にして祈りをもって始められる。説教は、そこで私が自分の思想を展開する講義ではなく、それは私のではなく、神ご自身の言葉だからである。

②黙想

祈りに続くのは、黙想である。・・・黙想とは、既知の思想を集成するすることではなく、聖書本文を一語一語自分のものにすることである。

③聖書本文の分析

(a)聖書のテキストは神について何を語るか

(b)人間について何を語るか

(c)わたしに向かって何を語るか

・・・・・

(i)この聖書本文が特に向けられているサタンはどこにいるのか。

また、説教をする際の実践的な勧めでは、説教を準備する時間帯や、説教する直前の行動など、細かく勧められている。

説教〔原稿〕は昼間のうちに書くことを勧める。薄暗くなってから書いたものは、昼間の光に耐ええないことが多いものであり、朝の光を受けるとほとんどさえないものになる。

 

感想

本書の『説教』に関する部分では、説教者の御言葉を語ることへの重みと語る者に対する責任を受け取ることができる。

ボンヘッファーは、キリストのからだである教会の為に説教することを語っている。

説教することは教会が成長するためであり、教会に集う一人が教会での交わりや仕事、一人でいる時間など全ての営みをキリスト中心に生きることへ勧めることにつながる。

ボンヘッファーはよく聖書に登場する人物を自分に投影して、語ることがしばしばある。

そうすることでボンヘッファーは、聖書の御言葉を自分自身に適用しようとしている。ボンヘッファーの説教においてもそのような内容が多くあり、聴衆は御言葉をより実存的に聞くことができる。

言葉は、客観的に距離をおいてではなく、イエスの人格からわれわれにむかって呼びかけ来たり、したがってわれわれの心の中で燃え立つ言葉としてわれわれにひびいて来るのである。

ボンヘッファーは、今生きている時代に御言葉をとことん適用させることで、御言葉に支えながら日々の営みが守られていることを意識していたのではないかと思った。

また、本書では、牧師の説教準備の段階を細かく教えている。

特に説教準備をする時間帯まで教えていることに関しては、少し驚いた。

しかし、ボンヘッファーはそのような細かい準備を勧めることで、神の御言葉を語ることの責任の重さを伝えようとしているのではないかと思った。

聖書の言葉の講解としての説教にとって肝要なことは、この言葉に出会って自分自身を殺さなければならず、自分の意志を死なせ、そしてただ神の下働きでのみあろうとする人間がそのことにかかわっているということである。

自分の意志を死なせ、そしてただ神の下働きでのみあろうとする人間。

私が特に印象に残った言葉である。神学生として、この言葉は忘れないでいきたいと思わされた。

ボンヘッファーの御言葉を語ることへの、重みと責任と恵みを本書より味わうことができた。