内田和彦『新版 イエスの生涯 ーエゴー・エイミ』(いのちのことば社、2012年)
概要
イエス・キリストの生涯を、四つの福音書から綜合して一つの流れで描く。
テーマは「イエス・キリストとは誰か」と、その答えでもある「エゴー・エイミ(わたしはある)」である。
感想
私は入手可能な本だけをレビューしようと思っているが、この『新版』はやや手に入れづらい。
しかし、旧版の上・下巻は中古で比較的入手が容易なようなので、レビューさせていただく。
さて、概要で書いたように、イエス・キリストの生涯を四つの福音書の内容に即して流れを追って描く本なので、「イエス・キリストとは誰か」を知りたい人にとっては良い本である。
イエスを単に道徳・倫理・哲学の先生として知りたい人にとってはふさわしくない本だが、イエス御自身は決して御自身をそのようには扱わなかった。
イエスの自己紹介は旧約聖書における神の自己紹介と同じ「わたしはある(エゴー・エイミ)」である。
神御自身が、人となってこの地上を生きられた。
それがイエス・キリストという方である。
それ以外のイエス像は、イエス自身の意図から全く外れている。
ところで、イエス・キリストの生涯は、クリスチャンにとっては知っていることばかりである。
こういった本はクリスチャンにとってはあまり重要には思えないかもしれない。
しかし、知っていることばかりだからこそ、「イエス・キリストとは誰か」を自分自身に問い直すことは重要である。
少なくとも私にとっては、イエス・キリストの福音が「当たり前」になってしまい、その特別さ・とてつもなさが薄れてしまうことがあるからだ。
前回の『『キリスト教は初めて』という人のための本』のレビューでも書いたが、聖書は神の御子であるイエス・キリストを救い主として信じることを読者に要求してくる本である。
福音書から忠実にキリストを描くこの本においてもそれは同じであり、この本は「イエス・キリストをだれと言うか」を読者に問いかけるような本である。
クリスチャンになっても、否、神の恵みを一度は知ってクリスチャンになったからこそ、その恵みを忘れないように、「イエス・キリストをだれと言うか」を自分自身に問い続けなければならない。
それは決して苦しい作業ではない。
イエス・キリストは私たちを愛しているからである。
イエス・キリストの生涯を知ることは、私たちが愛されていることを知ることでもある。
王でありながら、しもべとして苦難を受ける。
この一見矛盾するような二つのことを、天からの声は語る。
しかし、神においては矛盾ではない。
まさに王であり、神の子でありながら、私たちの罪を負い、苦難を受けるために、神はメシヤを遣わされたのであるから。(「4 受洗」p.37)
本来の栄光を捨て、へりくだり、ただ私たちの代わりにさばきを受けるためにこの世にイエス・キリストは来られた。
苦難を受けるための生涯というのは、想像を絶する。
御自身のいのちを捨てるほどに私を愛されたキリストの愛を知るとき、私はただ感謝する以外にはなくなる。
「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」
ヨハネの福音書15:13
by junstott