第二次世界大戦中で有名な神学者として挙げられるのがディートリヒ・ボンヘッファーです。ドイツの神学者で、ルター派の牧師でした。
彼は、1939年に反ヒトラーグループに参加し、後にヒトラーの暗殺計画に関与しました。
そのことが秘密警察にばれてしまい、絞首刑にあって亡くなります。
また、彼が著した『共に生きる生活』は、現代でも世界中の多くのクリスチャンに読まれ、多くの影響を与えています。
今回は、第二次世界大戦ナチス政権に抵抗し続けたボンヘッファーの人生を簡単に追っていきたいと思います。
生まれ~アメリカ留学まで
ディートリヒ・ボンヘッファー(以下DB)は、1906年2月4日にドイツで生まれました。DBの父親は精神科医だったそうです。会話することを大切にする家庭だったそうですが、家族はキリスト教から距離を置いていて、あまり熱心ではありませんでした。
1914年から始まった第一次世界大戦において、DBの兄はなくなってしまいます。DBはその出来事をきっかけに『死と永遠』について考えるようになっていきました。
そのことが影響したのかはわかりませんが、DBは大学で神学部を選び、ベルリン大学に進みました。
大学での成績はずば抜けており、21歳で神学博士号を取得しました。当時流行していたスイスの神学者であったカール・バルトの神学の影響を大きく受け、DBはバルトを乗り越えようと神学的な研究を続けていました。
1930年、DBが24歳の時、DBはアメリカに留学します。その当時アメリカでは、人種差別の様相が強く、DBはその問題を目の当たりにしました。
この留学時代の経験が、後のナチスへの運動に大きな影響を与えました。1年間DBはアメリカに留学しました。
ベルリン大学教員~婚約者との出会い
留学から帰ってきたDBは、在学していたベルリン大学で教え始めます。また、同時期に教会の牧師に任職しました。
大学でのDBの働きは、多くの学生にとって充実したものになりました。DBは牧師としてだけでなく、教育者としても優秀でした。
1933年、DBはヒトラーの危険性をいち早く見抜き、ヒトラーを支援している教会(ドイツ的キリスト者)に対し緊急同盟を結成しました。
後にが、その指導者になったニーメラーは、初めてドイツ的キリスト者でした。
1934年、DBはドイツの福音主義教会牧師たちや、信徒たちと「告白教会」を組織します。同年1月には告白教会第1回総会が開かれ、スイスの神学者であるカール・バルトが中心となって「バルメン宣言」を採択しました。
ドイツの福音主義のクリスチャンたちはこの「バルメン宣言」を土台に、教会闘争をし始めました。
1935年DBは、告白教会の牧師要請教育機関の所長に就任します。このころ、後に婚約するマリア・フォン・ヴェーデマイヤーと出会います。
ベルリン大学解任~死刑
1936年8月、ベルリン大学から解任されます、これは、DBが反ナチスの運動を積極的に行っていたためでした。
1937年、所長をしていた牧師養成教育機関が、秘密警察によって閉鎖されました。ベルリン大学の解任や、牧師養成教育機関の閉鎖など、反ナチスに対するナチスの動きが強まっていきました。
1939年、DBの身の上を心配するアメリカの友人の招きによって一時、アメリカに亡命します。しかし、DBは、第2テモテ4章21節の「冬になる前に来てください」という聖書の御言葉を読み、間もなくドイツに帰国します。この帰国では、DBの厳しい道のりの強い覚悟がありました。
帰国後、DBは、ドイツ国防軍の反ヒトラーグループに参加します。そして、牧会者としてグループの精神的な支えとなります。
1943年1月、8年前に出会ったマリアと婚約します。3か月後の4月には、ユダヤ人の亡命を援助したことで逮捕されます。
1944年7月20日、DBが参加していた反ヒトラーグループによるヒトラーの暗殺計画は失敗に終わります。この失敗により、多くの関係者が逮捕され処刑されていきました。この暗殺計画にはDBも関与しており、このころにDBは処刑されることを覚悟するようになったと言われています。
1945年4月、暗殺計画に、DBが関与していたことが発覚します、そして、同月4月に絞首刑されました。ヒトラーが自殺する3週間前の出来事でした。
表にまとめると・・・・
1906年2月4日 | ブレスラフに8人兄弟の6番目として生まれる。父親は精神科医 |
1918年 | 兄がベルリンで銃殺される。「死と永遠」について深く考えるようになる |
1924年 | ベルリン大学に、転学 |
1927年 | 21歳という若さで神学博士号を取得(カール・バルトの影響大) |
1930年~ | アメリカに1年間留学する。人種差別の問題を目の当たりにする。 |
1931年 | 帰国後ベルリン大学で教える。牧師としても任職 |
1933年 | ドイツキリスト者に対して、牧師緊急同盟を結成 |
1934年 | ドイツ福音主義の牧師、信徒たちと告白教会を結成する。 |
1934年5月 | 第1回全国告白会議にて「バルメン宣言」が採択 |
教会闘争が始まる。 | |
1935年 | 告白教会の牧師養成教育機関の所長に就任 |
後の婚約者マリア・フォン・ヴェーデマイヤーと出会う。 | |
1936年8月 | 反ナチスとしての運動が理由でベルリン大学を解任させられる |
1937年 | 牧師養成教育機関を秘密警察によって閉鎖させられる。 |
1939年 | アメリカの亡命するも、聖書に御言葉に心動かされ、すぐにドイツに帰国 |
ドイツ国防軍の反ヒトラーグループに参加し、精神的な支柱となる | |
1943年1月 | マリアと婚約。 |
1943年4月 | ユダヤ人の亡命を助けたことで逮捕される。 |
1944年7月 | 反ヒトラーグループによるヒトラー暗殺計画が失敗する |
暗殺計画に関与した人物が次々と逮捕、処刑される。 | |
DBも処刑されることを覚悟する。 | |
1945年4月 暗殺計画にDBが関与していたことが発覚。9日に絞首刑。⇒ヒトラーが自殺する3週間前の出来事。 |
おわりに・・・
ディートリヒ・ボンヘッファーの振り返ると、決して平坦な人生ではありませんでした。
アメリカに一度亡命するも、聖書の言葉を読み、再びドイツに帰国します。ボンヘッファーが自らの使命に生きようとした覚悟の表れだったと思います。
ボンヘッファーは帰国後、ヒトラーの暗殺計画に関与します。
この暗殺計画に関与したことが正しかったかどうかは現在でも様々な意見があるようです。ぼく自身もこのことに関して正しいかどうかは正直わかりません。
しかし、ボンヘッファーの生き様や覚悟から推測するに、彼の信仰による大きな決断だったのではないかと思っています。
ボンヘッファーについて語れるほどの知識はないので、これくらいにしておきます。これからもっとボンヘッファーについて調べ、彼の神学を深めていきたいと思います。
ではでは。