12月から冬学期が始まり、新しくキリスト教哲学の授業が始まりました!
今まで『哲学』に関する授業は今の大学でも、前に通っていた大学でもあまり触れてこなかった分野なので、苦手意識が最大値まで上り詰めていました。
『哲学』はかなり重い分野という認識があって、哲学者の名前が多く出て、名言をたくさん教わって、暗記がたくさんあるのかな、と冬学期の中で一番心配していた授業でした。
しかし、授業が始まってみると興味をそそる話題がたくさんあり、あっという間に150分の授業が終わりました!
これが10回続くとなると確かにハードな内容なのですが、クリスチャンであるぼくの社会に対する関心、特に政治への関心が深まり、これからの日本や世界がよりよいものになるために何ができるのかの考えを深めていくことができると思いました。
今回は第1回で学んだ内容と個人的な感想を紹介します。クリスチャンの方もそうでない方もこの話を読んで、少しでもキリスト教の世界観について知って、楽しんでもらえたらうれしいです。
神学と哲学の違いとは・・・?
授業で習ったキリスト教神学とキリスト教哲学の違いは、何を体系的、理論的に説明しているかという点です。
一言で言うと、
キリスト教神学は、救済論を体系化し理論化するものであり、
キリスト教哲学は、創造論と和解論を理論化するものであるということでした。
?????????
と、授業の最初にこのことを言われたときは、本当にさっぱりわかりませんでした。もちろん今でもあまりわかっていませんが、
先生の言うところによると、救済論は、神のひとり子であるイエス・キリストが十字架によって死に、3日目によみがえり、それを信じた人々は救われる。この事柄から始まる聖書(キリスト教世界観)を体系化し理論化するというのが、神学だそうです。もちろん聖書の中には創造の話も含まれています。
一方で、創造論と和解論を体系化し理論化するキリスト教哲学は、まず聖書は救済論から始まっていないということを示します。
聖書は救済論から始まっているのではなく、創世記に書かれている『創造』から始まっているといい、ここから物事を考えていきます。
もちろん、創造論は神学でもあります。しかし、同時に創造論は哲学を学ぶ上で何よりの土台になるということでした。
いったんまとめると・・・・・
キリスト教神学・・・救済論について体系化し理論化するもの
⇒救済論(イエス・キリストの十字架と復活)から始まる体系化(創造論も神学)
キリスト教哲学・・・創造論と和解論について体系化し理論化するもの
⇒世界と人類の創造から始まる体系化
となります。正直これを言われても、
「????????」
となると思うのですが(ぼくはすごくなりました・・・)
キリスト教哲学の創造論と和解論に話を進めたいと思います。
創造論とは・・・
創造論が伝えていることは、「すべての人類には、神さまから与えられた使命がある」ということです。
神さまは、初めての人間アダムを造られた時、2つの事を命じました。
①「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 創世記1章29節
②神である主は、人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。
創世記2章15節
①では、神さまは人間がこの世界を支配(管理)することを命じています。
②では、人間が園を耕し、守ることを命じます。特に、この「耕せ」という言葉は英語訳では、「cultivate」が使われています。その名詞形は「cultivation」で、耕作という意味があります。
また、耕作は「agriculture」という言葉にも言い換えることができ、「agriculture」という言葉に含まれている「culture」は文化という意味です。
つまり、神さまがアダムに命令した「耕させ」という意味には、文化を形成しなさい、という意味が含まれているということです。
キリスト教の世界では、この2つの命令を総じて「文化命令」と名前が付けられています。
そして、この「文化命令」こそが、全人類に神さまが与えた使命だという認識をキリスト教ではしています。
神さまは、生きる使命として「文化命令」を全人類に与えた。
和解論とは・・・・
しかし、この「文化命令」の後、ある問題が起きます。それはアダムが神さまの命令に背いて、善悪の知識の木の実を食べるという、罪を犯すということです。
この出来事を通してアダムは「自分たちの善悪は自分たちで決める。神さまなんかいらない!」と宣言したわけです。
その結果、今までの「神さまと人間の良好な関係」は失われ、「神さまと人間が断絶された関係」になってしまいました。
人間はもはや自分たちではどうすることもできません。
しかし、神さまはそんな人間と関係を「和解するために」あることを示します。
それは、人間が犯した罪を救うために、救い主を地上に送るということでした。つまり、イエスキリストです。
イエスキリストが全ての人の罪を代わりに負ってくださったために、人間は再び神さまとの「和解」の関係に入ることができるようになりました。
これが「和解論」です。
また、日本のキリスト教神学の傾向では、「和解」を個人の救いとして強調する傾向があります。しかし、実際のイエス・キリストを通してなされた「和解」は全人類に向けてのものだと聖書は語っています。
もし一人(アダムの事)の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ち溢れているのです。
ローマ人への手紙5章10節
こういうわけで、ちょうど一人の違反によってすべての人が不義に定められたのと同様に、一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。
ローマ人への手紙5章18節
和解論・・アダムから始まった全人類の罪を、イエスキリストが代わりに十字架を通して負うことで、人類と神さまとの関係が和解される
ここであれ?『キリスト教神学が強調している「救済論」と、キリスト教哲学が強調している「和解論」って結局同じじゃない???』と気づく方もいると思います。
実はその通りで、神学の救済論も哲学の和解論も結局同じこと言っています。
キリスト教神学とキリスト教哲学は同じものを別の角度から見ている
ここまでの話を整理すると
キリスト教神学・・・救済論について体系化し理論化するもの
⇒救済論(イエス・キリストの十字架と復活)から始まる体系化(創造論も神学)
キリスト教哲学・・・創造論と和解論について体系化し理論化するもの
⇒世界と人類の創造から始まる体系化
ここで一度最初のメモに戻ると、少し見えてくるものがあると思います。
それは、キリスト教神学とキリスト教哲学は、同じことを言っているということです。
それでは両者の違いは何か。
先生はこんなことをおっしゃっていました。
「神学と哲学は同じ聖書(キリスト教世界観)を別の角度から見ている」
つまり、同じ聖書(キリスト教世界観)を体系化し、理論化しようとしているけど、強調している点や、体系化するスタート地点が異なるということでした。
キリスト教哲学のスタート地点は、創造論と和解論です。
そして両者は、『人間の使命』と『キリストにより和解された世界』を重ねて、今のこの世界がよりよいものになっていくために、どう対処していくか、ということにつながっていきます。
聖書(キリスト教世界観)をもとに、かなり実践的なアプローチをしているのが、キリスト教哲学の特徴だと言えます。
◎神学と哲学は同じ聖書(キリスト教世界観)を別の角度から見ている
◎キリスト教哲学は、創造論と和解論(神さまと全人類との和解)に合わせて社会にどう対処していくのかというかなり実践的なものを体系化し理論化する
今回は授業で取り扱った「キリスト教神学とキリスト教哲学の違い」を自分なりにまとめてみました。
説明不足もあると思いますが、読んで少しでもキリスト教の考え方を深めてもらえたらうれしいです。
ではまた!