あらすじ
遠藤嘉信先生の創世記シリーズ「ヤコブ」編である。
荒削りの信仰者ヤコブの生涯とヤコブに働く神さまのヤコブの信仰を成長させるための関わりを、遠藤先生がわかりやすく解説する。
ヤコブの一番の特徴は、「神さまの祝福を何としても得たいという強い願望」である。
その思い自体は非常に素晴らしいものだが、荒削りのヤコブは、その思いを正しく用いることができないでいた。
神さまの祝福を得るために、空腹の兄エサウから食べ物を条件に「長子の権利」を奪ったのだ。
しかし、神さまはそんなヤコブを選ばれた。神さまは方法は間違っていても、ヤコブの純粋な祝福を得たいという思いに目を向けられ、その思いを正しく用いるためにヤコブを訓練された。
兄エサウや叔父ラバン、二人の妻との関係を通して神さまはヤコブを訓練された。
兄エサウを騙してから10数年経ち、ヤコブが「ある人」と格闘した時には、当時の人を騙して祝福をもらおうとするヤコブの姿はなかった。
そこにあったのは「ある人」と面と向かって格闘し、自らが痛みを負い、傷つきながらも、神さまの祝福を求めているヤコブの姿だった。
私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。 創世記32章26節
その結果、ヤコブは「ある人」からイスラエルの名前をもらい、その子孫が約束の地を踏むことになる。
ヤコブの信仰の成長。それが本書の最も大切にしている点である。
感想
もし、聖書の中で誰が一番好きかと問われると真っ先に頭に浮かぶのが「ヤコブ」である。
その理由は、ヤコブの素直な信仰に魅力を感じるからだ。
「ヤコブは穏やかな人となり」と解説されえる一方、腹を空かせた兄のエサウに煮物と引き換えに長子の権利を求める抜け目のないヤコブの姿がすぐさまに飛び込んでくる。母親にそそのかされて、父を騙し、エサウへの祝福を横取りしてしまうヤコブは、悔い改めることなく、「兄さんの憤りがおさまるまで」と、ただその場から逃亡するのみ。
しかし、ここからすべてが始まる。選び、神のお取り扱い、聖化、新生、そうした事柄が、人間の堕落という大切な教理に基づいて、物語る手法を駆使して、見事に扱われていくのである。
ヤコブの人生は、荒削りの信仰が研がれていくための人生だったかもしれない、と本書を読み終えた時に感じた。
神さまはその人の持っている賜物を知っておられて、それを磨きあげるために、その人に合った出来事や人生を用意されているかもしれない。
しかし、自分の短い人生を振り返ると、そう思えない事柄の方がずっと多くある。予期せぬ事態に陥った時、「神さまは、これによって、自分を祝福してくださっていて、自分の賜物を磨いて下さっている」とは簡単に言えない。
祝福してくださっていると知ってはいても納得はいかない。かといって、信仰は納得すればいいというものでもないことも知っている。
ヤコブは、祝福を獲得することに躍起になっていた男だった。けれども、単純な人間ではなかったのではないだろうか。何かに集中しすぎて回りが見えなくなる時があったとしても、その思いだけで何十年も生きていけるはずがない。
ヤコブは、そういった出来事を通して、神さまが与えられる本当の祝福を体験的に知っていったのではないかと思う。
本書の特徴は、荒削りの信仰を持ったヤコブの成長である。神さまはあらゆる方法を用いてヤコブを祝福し、信仰者として整えていった。
信仰の成長は、自分が意識してできる部分もあるが、気を付けるだけではどうしようもできない自分も存在する。しかし、自分では表現できない心の必要を神さまは見てくださる。
時に、神さまは、自分の内に渦巻く思いの中で、その本当に必要なものに気づかせてくださる。また、様々な出来事を通して、本当に必要なものを満たし、そして、成長させてくださる。
ヤコブは、ヤコブの賜物を神様の大きなご計画の中で成長させられ、神さまのために正しく用いることができるようになっていった。それが神様のヤコブに対する祝福だ。
私もヤコブのように自らが持っている不完全で、荒削りすぎる信仰と賜物を神様の祝福の中で正しく用いていきたい。
自分にとっては理解できない出来事を通して、神さまは祝福してくださる。その信仰を持ちたい、疑ったとしても、その信仰を選び取れるようになっていきたい。そのようなことを思わされた本であった。
本書では、ヤコブが少しずつ成長している様子をじっくりを味わうことができる。
聖書を通してヤコブの人生を数時間で読めば、ヤコブの人生は祝福されたのだ、とわかる。しかし、本書はヤコブにとっての本当の祝福とは、どういうものだったかを一つ一つの出来事を通して、追って知ることができる。
ぜひ、本書を読んで、ヤコブの荒削りの人生と、関わる神の祝福を味わっていただきたい。