意外と知られていないザビエルの人生
社会の教科書で誰しもが見たことのあるフランシスコ・ザビエル。
多くの男子中学生は、彼の顔にかなりお世話になったのではないでしょうか。
かくいうぼくも中学生の時代、ザビエルの顔には大変お世話になりましたし、そのことばかりに目がいってしまい授業に集中していませんでした、、、、
また、ザビエル自身のことも「日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師」という理解しかなく、あまり関心もありませんでした。
しかし、今改めて、フランシスコ・ザビエルの人生を勉強すると、彼の日本に対する高い尊敬と、深い愛情を感じ取ることができます。
そこで今回は、サクッと「日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師」フランシスコ・ザビエルについて紹介したいと思います。
東方見聞録に書かれている~黄金の国日本~
日本を当時の世界の中心だった西洋に広く知られるようになったのが、「東方見聞録」で、これを書いたのが、有名なマルコ・ポーロです。
マルコ・ポーロは、父親と叔父と一緒にシルクロードを渡ってフビライ・ハンの元で、約17年間仕えます。
その後、ヨーロッパに帰国し、元朝や長旅で聞いたり、学んだことをまとめたのが「東方見聞録」です。
その中には、日本の事を黄金の国として紹介されており、至る所に黄金や真珠を見つけることができ、日本人のほとんどが黄金をたくさん持っていて、豊かな国である。
などと紹介されています。
・マルコポーロが書いた東方見聞録
・日本は黄金の国として紹介された
・皆日本に興味を持ち始める
ローマ教皇が与えた布教保護権
当時のローマ教皇はヨーロッパ一帯を支配しており、他国もローマ教皇の許可なしには勝手に動くことはできませんでした。
そんな中ローマ教皇は、スペインとポルトガルの両国王に布教保護権を与えて、教会の布教活動を保証しました。
布教保護権を少し説明すると、
「外国で布教活動する費用を負担する代わりに、その支配地域での司教や司祭の任命権をローマ教皇に与える」という内容のものでした。
また、この教会布教活動を保証する背景には、植民地政策や貿易による利益を求めようとする目的がありました。
純粋な目的でキリスト教を広めることを許可したわけではなく、スペインとポルトガルもそのことは承知の上でした。そして、この政策が植民地拡大の大きな根拠となっていきました。
ローマ教皇は、スペインに新大陸とフィリピンを、ポルトガルにはアジア、アフリカ、ブラジルをそれぞれ与え、布教する場所を割り当てました。
そして、その政策を存分に活用したのがザビエルが所属するイエズス会でした。
・ヨーロッパはキリスト教を広める裏で、植民地政策や貿易政策も進めていた。
・イエズス会は、布教保護権で支援されるお金を利用して宣教した。
イエズス会は、7人から始まった
1540年にザビエル他7人でイエズス会は、設立されました。
この会のモットーは「すべては神の大いなる栄光のために」です。
そして、二つの聖書の言葉を大切にしていました。
1つはマタイ16章26節
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の益があるでしょうか。その命を買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
2つ目はマルコ16章15節
それからイエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、全ての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」
これらがイエズス会のモットーであり、宣教の土台になっています。
彼らの宣教には方法がありました。
文化のレベルが低い国と、高い国では宣教の方法が異なっていました。
文化のレベルが低い国に対しては、非常に圧力的にかかわりました。ひたすらキリスト教を伝え、教育もしていきました。
一方文化の水準が高い国に関しては、相手の文化や習慣を尊重し、常に融和的な方策をとっていました。いわば、適応主義の方法をとりました。日本と中国はこちらの方法で宣教が行なわれました。
また、イエズス会は教育を非常に重要視していました。日本における上智大学はこのイエズス会の経営の元で成り立っています。
イエズス会のモットーは、「すべては神の大いなる栄光のために」
ザビエルの生い立ち
ザビエルは、ザビエル城の貴族うまれです。1506年に産まれました。(織田信長の28歳年上)
ちなみに、プロテスタントが誕生した宗教改革は1517年と言われているので、まさにカトリックとプロテスタントがぶつかっていた時代にザビエルは生まれ育ちました。
カトリックの話を少しすると、この宗教改革があったために、海外へカトリックを広める方策を取り始めた流れも、ザビエルが日本に来た理由の一つとして言えると思います。
ザビエルは、大人になると、イグラチウス・ロヨラ(イエズス会を創設した中心人物)と親交を結び、その後他のメンバーも含めてイエズス会を設立します。
・ザビエルが生まれたのは、キリスト教で重要な宗教改革(1517年~)の時代
・そのとき、日本は戦国時代(1534年に織田信長が生まれる)
・カトリックは海外に信徒を求める状況だった。
インド宣教とヤジロウとの出会い~
実は、ザビエルはポルトガルから直接日本に来たわけではなく、始めはインドで宣教していました。インドでの宣教は、改宗者が非常に多く成功を治めました。
しかし、彼らのキリスト教に対する理解は、浅薄なもので、布教保護権の狙いでもあった植民地政策の事を考えるとあまり可能性を見いだせなかったそうです。
ザビエルは、インドで宣教中に日本人のヤジロウで会いました。
ヤジロウは、鹿児島出身の下級武士で、若いころに殺人を犯した経験がありました。その経験にヤジロウは悩み、ポルトガル船に乗り込んで、インドまで来ていました。
2人はこうして出会いました。ザビエルにとって初めての日本人でした。
そしてこのヤジロウは、ザビエルにとって非常に大きなきっかけとなって、日本人に強い関心を持つようになりました。
彼は、知識欲に燃えていますが、それは非常に進歩するしるしであり、また短時間のうちに真理を認めたと言えるでしょう。
すぐに福音を信じるとは限らないが、指導者も民衆も信者になるかどうか判断するだろう
こうしてザビエルは、日本への宣教に想いを向けていくようになりました。
・ザビエルはインドでヤジロウと出会い、日本へ。
ヤジロウと来日~1549年8月15日~
ザビエルが来日したのは、戦国時代の末期でした。
1549年8月15日にザビエルが43歳の時に、鹿児島に上陸しました。
ザビエルは、鹿児島で会った日本人に対して以上に好印象を持ちました。
第一に、私たちが交際することによって知り得た限りでは、この国の人々は、今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は、異教との間では見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般的に善良で悪意がありません。
彼らは驚くほど、名誉心の強い人々で、他の何よりも名誉心を重んじます。すなわち名誉は、富よりもずっと大切なものとされているからです。侮辱されたり、軽蔑の言葉を受けて黙って我慢している人々ではありません。
ザビエルは、日本人を非常に完成の優れた人々、名誉心の強い人々であると評価し、キリスト教の宣教への大きな期待と確信を表明しました。
ザビエルはその後「信仰箇条の説明書」というものを翻訳しました。そこに出てくる「神様」の日本語訳が後に大きな問題となっていきます。
一緒に翻訳活動を手伝ったヤジロウは「神様」を「大日」と訳しました。しかし、ヤジロウはもともと真言宗の信者であり、彼は「大日」と聖書の「神様」を同一視していました。
しかし、ザビエルはそのことに気づかず、至る所で「大日」を信じるように宣教したのです。始めお寺の僧侶などは、「大日」という言葉に関心を持ち、話を聞いていましたが、ザビエルが十字架や贖いなどというキリスト教の教えを話し始めると、聞いたことがないと言って、離れていきました。
その出来事をきっかけにザビエルは、「大日」と「ゼウス」は違う神であると知るようになりました。
その後、ザビエルは、京都や大阪、山口大分をめぐり至る所でキリスト教を広めていましたが、イエズス会の命により中国宣教に行かざるを得なくなりました。
しかし、ザビエルも日本がかなり中国の文化の影響を受けていることを知り、中国で宣教することが結果的に日本の宣教になると思うようになりました。
日本を出発した時ザビエルは45歳で、黒かった頭は白髪に変わっていたそうです。
ザビエルは、中国へ向かう途中の船旅で病気になり亡くなりました。
・ザビエルは、2年間日本で宣教をしました。
・日本を出るころには、ザビエルの髪の毛は白髪に
まとめ
ザビエルが日本に来たのは、ポルトガル政府やイエズス会の命令によるものではありませんでした。
ヤジロウとの出会いを通して、彼自身が日本にキリスト教宣教の可能性を持ち、個人的に日本に来ました。
日本にいた期間は、2年ほどでしたが、ザビエルの日本に対する愛情はものすごいものでした。
しかし、ザビエルが日本の大名などに貢物をしたりなど、比較的経済的に余裕を持ちながら宣教を続けられたのは、植民地政策を海外に向けて進めていたポルトガル国王からの支援でした。
つまり、ザビエルの日本での宣教と、ポルトガルの植民地政策とは、決して無関係ではありませんでした。
少しでも勉強になったら嬉しいです。
それでは・・・
参考にした文献
日本キリスト教宣史 中村敏著