昔からユダヤ人は教育熱心な民族として知られています。
ヘブライ語聖書(キリスト教では、旧約聖書と呼ばれる)を生活の中心に置いているユダヤ人は、親としての威厳や責任を非常に大切にしています。
そして、ヘブライ語聖書にある神様の権威を第一にするユダヤ人にとっての教育の最大の目的は、「神様に喜ばれるような人に育てること。」であり、それは非常に「神聖な仕事」です。
そのために、ユダヤ人は熱心に子育てをします。例えば、ユダヤ人の成人は男の子は13歳、女の子は12歳です。この年になると、家族とその親戚が大勢集まって、トーラー(ヘブライ聖書の創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記⇒モーセ五書とも呼ばれる)を皆の前で朗読します。
それは、特これから「責任のある大人として生きる」ということを公にするためのものです。
ユダヤ人にとっての教育は、単なる「ヘブライ語聖書の知識を教える」だけでなく、神様の捧げる「生き方」そのものに焦点を当てており、一人の子どもが自立して神様にささげる人生を送れるように親が熱心に導いていきます。
ユダヤ人の教育に関する事柄は日本人にとっても学ぶところはたくさんあります。
最も苦労する”怒りのコントロール”
子育てをしている方や、教育関連の仕事についてる方は、子供にイラっとしてしまったこと一度はあるのではないでしょうか。
そして、一度どころか毎日何度もイライラしてしまって、自分が疲れてしまったり、子どもとの良好な人間関係やうまく築けなかったりして悩む方も多くいると思います。
また、子どもとの関わりだけでなく、人間関係の中で一度は誰しも「怒りをコントロール」できれば、良好な人間関係をうまく築けるのに、思ったことも多々あると思います。
しかし、子どもに元気に成長してほしい、責任ある自立した大人になってほしい、という思いはすべての親、先生が思っていることだと思います。
今回は、ユダヤ人教育の視点から「怒りのコントロール」について、一緒に学びたいと思います。
ユダヤ人の「怒り」に対するイメージ
ユダヤ人の聖典(旧約聖書、タルムード)には、怒りについて次のように書いてあります。
- 家庭内の怒りは、穀物中の虫のようなもの
- いつも怒っている人は、ありとあらゆる悪魔に操られている人だ。
- そんな人の人生は、人の生とは言えない。
- 怒りは自分の内なる、にせの神
- 「自分の霊を制することができない人は、城壁のない、打ち破れた町」箴言25:28
- 「愚か者は感情のすべてをぶちまけ、知恵のある人はそれを内に収める」箴言29:11
ユダヤ人にとっての怒りのイメージは、非常に否定的です。
特に、「にせの神」という言い方は特徴的な表現です。
つまり、本来いる神様よりも自分の「怒り」が神として存在し、「怒り」がすべての基準にしている、ということです。そして、その基準から外れるとイラっとしてしまうのです。
このように神様以外の事を神様とすることをユダヤ人やクリスチャンの人は「偶像礼拝」とも言ったりします。
ユダヤ人から学ぶ「怒りをコントロールする方法」
①子供の行動そのままを受け止める。
怒りに問わず「感情」はすべて、外側からの刺激に対しての反応として、外に出されます。
別の言い方をすると、感情を外に出す前に「自分のフィルター」を必ず通ります。このフィルターをしっかり機能させれば、外に「怒り」を出さずに済みます。
そして、そのための一つの方法は、「子供の行動そのままを受け止める」ということです。
「怒り」の原因の多くは、自分の期待と周囲の実際に起こったことのギャップです。
例えば、「子供は、自分で遊んだものを片付けするべきだ」という思いがあると、実際に片付けできない子供を見ると、「どうしようもない子」「なんで片付けできないの?」という思いになってしまいます。
しかし、それは、自分の理想を子どもに押し付けている場合が多くあります。ユダヤ人的に言えば、自分が神になって、自分の基準で物事を判断している状態です。
だからこそ、イラっとした時は一度立ち止まって「怒り」の原因を探りつつ、時には実際の子どもの行動のありのままを受け入れるのも非常に大切なことです。
次の言葉は、ユダヤ人の律法学者ラビ・シムハ・ワッサーマンの言葉です。
”親は、まず何を望んでいるかはっきり決めなければいけない。怒りを発散したいなら、そうすればいい。しかし、何かを成し遂げたいというのなら、怒りを発散しても意味がない。”
②人は誘惑に弱い
あるユダヤ人の言葉です。
”教えに背いた人がいたとしても、その人を非難してはいけない。時として、誘惑には打ち勝ちがたいものだ。あなたが、同じような立場だったら、自制できなかったかもしれない”
子どもであっても、大人であっても、誘惑には勝てない時が往々にしてあります。人は誰しも、誘惑には弱い存在だという、ことを語っています。
他人の立場に立って、その人の誘惑の度合いを測ることはできません。それゆえに他人を裁くことができないのです。
それでは、誰が教えに背いた人を裁くことができるか。ユダヤ人からすると、それは神様だけがすることのできる事柄です。唯一正しい神様だけが人を裁くことができるのです。
19世紀のドイツの正統主義のラビであり、聖書学者のラビ・サムソン・ラファエル・ヒッシュは、次のような言葉を残しています。
“あなたが、その目で人が罪を犯すのを見たとしても、あるいは信用できる目撃者が、その人の罪を証明しようとも、裁くのはあなたではない。あなたにとってこういう場合の正義とは、愛である。そしてこの愛こそ、その人にとって最も信頼のおける弁護人の証である。この弁護人はその人の行いが可能な限り、許すものだし、少なくとも、情状酌量の余地を探してくれよう。”
子供を何回注意しても直らず、次第に自分の内側から怒りがこみ上げた時は、
「自分はいつも2,3回注意されたら直るだろうか」と自問自答してみると、案外落ち着いて、コミュニケーションが取れるかもしれません。
③人格と行動を区別する
ユダヤ人にとって子どもは神様から与えられた非常に大切な存在です。神様から与えられた人間の価値は尊い。という大原則の上に教育がなされていきます。
イザヤ書43章4節「私の目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」
だからこそ、ユダヤ人はその人の価値、尊厳と行いを区別します。
子どもが悪いことをする≠悪い子ども
問題は、その子ども自身にあるのではなく、子どもも人として誘惑に弱い存在であること、その子どもの苦手なこと、悪い癖、として捉えることが重要だということです。
④怒っても自分に失望しない
子どもに怒らないようにするために、いろいろと工夫して努力をしてみるのですが、ある期間が過ぎると、つい忘れて気づいたら、また子どもに「怒っていた」ということもよくあることです。
そんなできない自分に落ち込んだりするわけですが・・・
しかし、そんな時に思い出して欲しいのは、そんな自分に「失望しない」ということです。
価値と行為は区別する、という言葉は、子どもだけを指すものではありません。すべての人に当てはまるものです。
当然、大人も一人の人間ですから、怒りを抑えられない時があります。しかし、失敗してもあなたの価値は変わりません。今の訓練がいつか習慣となって、無意識にできまでの辛抱です。
キリスト教で怒りについては何と言っているのか。
キリスト教の人は、ユダヤ人と同じくヘブライ聖書(旧約聖書)を読みますが、クリスチャンは、新約聖書もよく読みます。
そして、この新約聖書にも怒りと教育について書かれている箇所はたくさんあります。そのいくつかを紹介します。
- 「父たちよ。自分の子ども怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」エペソ人への手紙6:4
- 「それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば。自分にだけは誇ることはできても、他の人には、誇ることができなくなるでしょう」ガラテヤ人への手紙6:4
- 「悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要な時に、人の成長に役立つ言葉を語り、聞く人に恵みを与えなさい。」エペソ人への手紙4:29
キリスト教でもユダヤ教と同じように、子どもは神様から与えられた大切な存在であることが教えられています。また、自分自身が誘惑に弱く、完璧でない存在であるがゆえに、人を裁くこともできないことも教えられています。
やはり、同じヘブライ聖書(旧約聖書)を読むので、考えが似ている部分も多くあります。
この聖書から、学べることをまとめると次のようになります。
- 子どもは、神様から与えられた存在であること。
- 人は誘惑に弱く、人を裁けるように人はいないということ。
- 相手に使うのは、相手を怒らせたり、傷つけたりする言葉ではなく、相手が成長できる言葉を使うこと。
筆者の経験
筆者自身、高校の教員生活で、生徒に何度注意しても直してくれないという経験をしました。そして、心からの苛立ちを覚えた事も数えきれないほどありました。
しかし、クリスチャンである筆者は、その度に
「自分が必ず正しいわけではない。」
「自分も直せないことがあるのだから、生徒に対しても長い目で見ないといけない」
と何度も言い聞かせてきました。
「怒りのコントロール」は一朝一夕ではできない事柄だということも、身に染みて経験しました。今もその訓練の中にあります。ただ、教員なり立ての時よりは、今は落ち着いて相手を見ることができるようになったとも思います。
これからも少しずつ、自分の怒ってしまう誘惑に向き合って、改善していきたいと思っています。
まとめ
怒りのコントロールをするために必要なことをまとめると次のようになります。
①自分に入ってくる事柄を自分フィルターで吟味してから反応する。
②子供のそのままを受け止める。
③人間は誘惑に弱いことを知る
④人格と行為を区別する。
⑤怒ってしまっても失望しない。
大切な子供たちのために、自立した大人になってもらうために、少しでも参考になれば幸いです。