雑記ブログ

神学校に行く意味を考えた出来事

今日はぼくが、神学校に行くことの意味を深く考えさせられた出来事を話したいと思います。

ぼくは、神学校に行く前は、高校の教員をしていました。

たった数年間でしたけど、すごく充実した毎日でした。

 

今日話すのは、その学校で出会った一人の先輩教員との出来事です。

 

 

 

 

ぼくは、教員をしている間、ずっと、運動部の顧問でした。

 

そしてなぜか教員最後の年だけ、今まで担当していた部活動と異なる運動部の顧問を担当しました。

 

そこで一緒になった男性の先輩先生は、何十年もその同じ運動部の顧問をしていて、本当に熱心に教えている方でした。県内でも結構な強豪チームでもありました。

ぼくは、その部活動に入るときには、すでに神学校に行くことは決まっていたので、正直どう関わればいいのか、わかりませんでした。

しかし、その中で、その先輩先生は、自分を同等の同僚として扱ってくれたんです。

今まで何年も自分のチームを作り上げていた方が、新入生の練習をすべてぼくに任せるなんて、

ぼくにとっては、意外でしかなかったです。

 

でも、逆にぼくにとっては、それがうれしくて、何とか、この先生のために、と思って

、一生懸命取り組んでいたわけです。

正直、きつかったですね笑

365日の中で休みは全部で7日間くらいでしょうか。

もちろん日曜日も1日中、部活動が当たり前でした。

だから、そのときは夕方に教会に行って、礼拝していました。

でも、そんながむしゃらにやりつつ、当然、学校を辞める申し訳なさも、持ちつつ、

神学校の入学試験のために、時々、年休も取りながら、(もちろん年休はとっても、放課後の部活動は参加しますが・・・笑)

そんなこんなであっという間に11月。

11月には、神学校の入学試験がありました。

だから、そのときは、2日間ほど、年休をもらって部活動も休んだわけですが・・・

先輩の先生は、快く送り出してくれました。

「頑張ってな」

なんて声をかけてもらって

入試に向かったわけです。

そして、その応援もあり、12月ごろに神学校から合格をもらって、そのことを先輩先生に伝えたところ、非常に喜んでくれました。

その言葉をもらってぼくもすごくうれしくなりました。

しかし、ある時、平日20時ごろに部活動が終わって、生徒たちが自主練をして帰るのを教官室で二人で待っているとき、

その先生からボソッと

「正直受かってほしくなかったな」

と言われました。

そして、来年もこの二人で部活動を見たかったと言われました。

正直、ぼくは、なんて答えればいいのかわかりませんでした。

冗談半分でいうその先生の言葉をどううけとればいいのかわからず、

でも半分は本気なのかなとも思いつつ、

なんともいえない複雑な気持ちになったのを覚えています。

2月になり、保護者の方が、ぼくの送別会を催してくれることになりました。

ぼくのためにわざわざホテルの宴会場を借りて、わざわざ、垂れ幕も作ってくれて、

逆に申し訳ない気持ちになったわけですが・・・

無事に送別会が終わり、二次会では、部活動のスタッフのメンバーで行こう

 

ということになりました。

そのときは、トレーナーの方も一緒だったので、3人でラーメン屋に行きました。

それぞれがラーメンを注文し、来るまで、チームのこれからのことを話したりしている中で

その先輩先生がぼそっと

「やっぱりいてほしかったな」

と話し始めました。

 

 

そのあとも、いろいろと本音でぼくに語ってくれました。今までの練習の事や、生徒とぶつかったことなどを振り返ったり、たった一年だったのに、すごく濃い時間だったんだなと思いました。

 

その話を聞いてぼくは、正直泣きたくなりました。

自分は何のために神学校で勉強するんだろうと考えたわけです。

目の前に自分を必要としてくれる人がいて、

その思いに背を向けて神学校でキリスト教について学んで、クリスチャンしかいない学校に入っても、目の前にいるこの先生のために、自分は何もできないのではないか

と本気で思いました。

聖書には、

「隣人を自分のように愛しなさい。」

という言葉があって、

その言葉が何回も自分の頭をよぎりました。

愛を示すってなんだろうと思いました。

神学校に行くことで、その間、関われない人がいるんだということを実感しました。

 

 

神学校に行くことは、いまつながっている社会から一旦離れることであることを知りました。

 

 

 

気づけば、店の中にはだれもおらず、店主にもう閉めますよと言われる時間に。

そして、店の外に出ても、その先生に返す言葉も言えないまま、解散しました。

そんなこんなで、3月後半。

部活動で、教えるのも最後の日になりました。

実はその最後の日は、

ぼくのために、チーム内で試合を組んでくれました。

生徒に混ざって、一緒にプレーしました。

 

 

 

 

 

 

途中から先輩先生も試合に混ざってくれて、すごく楽しい時間でした。

 

そこで一つ気づいたことがありました。

それは、自分はその生徒たちや先輩先生のために後ろめたさをもって悩んでいたけれど、

本当は部活動に関わる一人一人にぼくが支えられている

 

 

ということでした。

そして、ぼくは、神学校にいる間、無駄な時間を過ごさないと、強く思いました。

 

生徒たちや、先生方と関われないという後ろめたさから、その分の時間を自分の将来の働きのために一生懸命になることが、自分の今やるべきことだということが明確になりました。

 

 

 

 

でも残る選択肢もあったんじゃないのか、と言われると正直なかなかうまく答えることはできません。

 

 

 

何が正しかったのかは、今でもわかっていないのが本音です。

 

 

でも、今神学生として感じていることは、そういう思いを持ちながら生きていくことを求められているのではないかと思っています。

 

 

神学校に行くことは大きな自分の夢でもあったので、いけると決まったときは、本当にうれしかったです。

 

 

でも一方で、神様に導かれていると思いながらも、自分でその道を選んだともいえると思うと、そこには責任が伴うわけで、、、人生の選択って、そういうことの連続なのかなーとか思ったりしてます。

 

 

だから、自分は、いま置かれている場所に一生懸命に向き合いたいと思います。

 

 

 

 

そして今、この記事を書いている間も、その時の思いを思い返しながら書いています。

 

その思いをしっかりと持ち続けて、このブログの一つ一つも大切に続けていきたいと思います。

ではまた。