2020.9.20 日曜日。
コロナの中、いつものオンライン礼拝。
ZOOMを開いて、いつものように賛美し、お祈りを捧げ、聖書を開く時間。
12:00過ぎ。
礼拝が終わり、ふと下を見ると、いるじゃあないですか
ムカデさん。
写真にとったのはいいけど、写真をアップしようか迷ってやめました。
あまりにもショッキングな大きさだったので。
1時間くらい戦い、結果、外に追いやり無事に解決。
もうほんとに鳥肌が何回も経つ経験をしました。
正直あんなに大きなムカデは初めて見ました。
控えめに言っても、気持ち悪い。
足が何本も生えてて、不規則な動きとフォルムのこわさ。
とても、愛着が湧く生き物ではなかったです。
外に投げた後は、他にもいないか部屋に探していたんですが、見つからず、
急に疲れて布団に座り、ボーとしていました。
すると、ふと一つの疑問が浮かんできました。
ムカデって聖書に出てくるのかな
そして、もし、出てくるなら、どんな風な役割を持っているのかな
急にやる気が出て、
それで、辞典や、インターネット等でいろいろ調べたんですが、
結果、ムカデという言葉は聖書にはありませんでした。
しかし、調べていくうちに面白いことに気づきました。
「ムカデ」「聖書」と検索すると、いくつかヒットして、牧師先生の説教や、ブログでムカデとの体験談が語られているのですが、
そのムカデのとの体験談の多くは
ムカデから守られて神様に、感謝。
人に害を与えるムカデ以上に罪が人に与える害は大きいなどなど・・・
ムカデはどこまでいっても、罪の比較に用いられ、人の敵として扱われる悪役でした。
そのような扱われ方に対して、ぼくはムカデが急にかわいそうだと思いました。
ムカデは、人に害をなすものとして、罪と並行して考えられるけど、なぜほかの生き物たちは、そのような扱いを受けないのだろう。
むしろ、鳥類や哺乳類の動物、綺麗な蝶などは、神様の被造物の素晴らしいものとして挙げられているような・・・
落ち着いて考えると何とも不思議なことだと思いました。
確かにムカデを見て、かわいい、素敵!と思う方が多くないという現実はありますが、それでもかわいそうな扱いではないでしょうか。
そして、ぼくは
人の感性は動物を等しく愛せるような造りではないのかな?
などなど、ムカデに関していろいろなことを考えました。
そして、30分くらい考えた最終的な結論は、
だからぼくは、ムカデを愛せるようになりたい。ということでした。
他の生き物と等しい神の被造物として、その圧倒的に特徴のあるフォルムを芸術的なものとしてとらえられるようになりたい。
この特徴のあるフォルムは、だれにも決して真似はできない
そしてもし、今の自分がムカデに声をかけられたらきっと、ムカデに怒られる。
なぜ、あなたは神を賛美しないのか。
私は、常にこの体で、多くの人に嫌われながらも神の被造物として神に人生をかけて賛美を捧げている。
私は、被造物としての役割を100%全うしているのだ。
ローマ人への手紙8章19節
「被造物は切実な思いで、神の子供たちが現れるのを待ち望んでいます」
ムカデが、あのフォルムを通して、常に賛美を捧げていると思うと、
自分の今の状態は
ムカデ以上に自分の役割が分かっておらず、やるべきことを全うできていないのではないかと思いました。
ムカデから学べる事。
それは、自分の持っている特徴を用いて、全力で自分の役割を全うすること。
ムカデよ。
いつでも部屋に来ていいよ。
ただし。
ぼくの見えるところでね。